蛍光灯を反射して、整えた爪が不自然に煌めいた。
まだ完全に乾いていなかったそれが乾燥するように、ひらひらと手首を振る。
失敗した、と思う。速乾にすればよかった。これじゃ書類が作れない。

溜息をついて天井を振り仰ぐと、ドアが軽くノックされた。
静かで落ち着いた音に、訪ねてきた人物がすぐに脳裏によぎる。霧の守護者。


「はーい」

、僕ですが」

「うん。わたし今動けないから、勝手に」

入ってきていいよと続ける前に、凄い勢いでドアがばん、と開いた。
思わずぽかんとして開いた入り口を眺めれば、泣きそうなのか怒ってるのかよく分からない表情の同僚。
どんな表情でも様になってしまうのは、彼が途轍もなく美形だからなのか。世の中不公平だ。

「……どうしたの骸さん」
「ど、どうしたのはこちらの……いえなんでもないです」

言いかけて止めて、彼はそのまま脱力してしゃがみこんだ。珍しい光景を見た。だって「あの」六道骸だ。
常にポーカーフェイスを崩さず、その笑みの向こうは誰にも読ませない、道化師みたいにタチの悪い詐欺師だ。
骸さんはしばらくそうしていたけれど、そのうち部屋に充満するシンナー臭に気が付いたのか顔を上げて、軽く眉を潜めた。
換気してたけど、まだ匂いが残っていたようだ。わたしはもう慣れてしまっているから分からないけど。

「なんです、この犯罪的な香りは。ボスに怒られますよ」

「モノは言いようだよね。……残念、マニキュアです」

ほらこれ、とやっと乾いてきた爪を示す。
真っ赤に塗るのは嫌いだから、わたしは大体いつもクリアでツヤをつけることしかしないけど。
赤いのって、職業柄、他の何かを連想させて寒気がする。

「ああ……なるほど。だから動けない、と」
「そう。乾いてないから」
「僕はてっきり何か怪我でもしたのかと思いました」

溜息混じりにそう言った骸さんの声がすごく優しいものに思えてしまって、図らずも鼓動がはねた。
うわ、不覚。なんでこんな人に。麗人の皮を被った慇懃無礼のかたまりに。
「心配してくれたんだー」
「ええそうですよ」
茶化すように言った言葉に即答で真面目に返されて、言葉につまる。
固まったわたしに苦笑して、骸さんはその場をフォローするように話題を変えた。

「マニキュアと言えば……いつも思うんですが、は爪が綺麗ですね」
「そう? まあ、手入れはしてるけど」

女の子ですねえ、という骸さんの言葉に思わず口端を上げた。
「おやじくさいよ」
「失礼な。君より2つほど上なだけですよ僕は」
「そうだけど。でも骸さんは十代でお父さん的な役割だったわけだし。変な威厳がついたんじゃない?」
ふふ、と笑って暗に犬ちゃんや千種くん、凪のことを指すと、誇らしげな笑みが返ってきた。
「立派に育っているでしょう」
「なにそれ」
空気が和んだところで、彼の方からわたしの部屋を訪ねてきたことを思い出した。




「で、どうしたの? 何か用事あったんでしょう?」
「そうでした。このファイルなんですが」
骸さんが言いながらマイクロチップを取り出す。細くて長い指に挟まれた薄い媒体が、鈍く光った。
「データの解析をお願いしたいんですよ」
「わかった。期限と提出は?」
「出来るだけ早く。提出は僕か綱吉君にお願いします」
「了解」

チップを受け取る為に手を伸ばすと、何の前触れも無しに手首を取られた。
そのままわたしの指先をまじまじと見つめる骸さんに首を傾げる。
「何ですか、手なんか見て楽しいの?」
いえ、と一言答えた後は、見つめる作業に没頭してしまう。顔も上げないままだ。
訳が分からなくて、なすがままに任せるしかなかった。
「骸さん?」


「……

「はい?」


神妙な声に、なんとなく背筋が伸びる。
「少し、嫌なことを言っても良いでしょうか」
「話によります」
答えると、骸さんは思案するように目を閉じて、開いた。
「この綺麗な爪を、手を、維持していてくださいね。決して汚さないように」
「………」

内容だけなら、脈絡のない話で終わる。だけど、わたし達はボンゴレだ。マフィアだ。
わたしは前線に出てはいない。骸さんの率いる部隊は、そもそも実戦が少ないからだ。
せいぜい証拠隠滅とか、情報の隠蔽。けれどそれは、全てを霧にまく重要な任務。
そしてわたし達は、わたしは、その行為によって誰かを殺している。
直接相手を知らなくても、見なくても、触らなくても、キーボードの上だけで。
その意味では、どんなに綺麗に磨いても、コーティングしても、わたしの爪はきっと、透明じゃない。
もちろん戦闘に出ても困らない腕は持っている。だけど実際に駆り出されたことはまだない。
それでも。

「……骸さん、もう、手遅れだよ……」

今わたしの手の上にあるマイクロチップだって、こんな小さな中に、どれほどの命があるのだろう。
普段考えないようにしていることではあっても、ふとした瞬間に認識して、寒気に襲われる。



「でもね、誰も恨んでないの。ボスは素敵な方だし、守護者のみんなも優しい。骸さんだって、こうして気に掛けてくれる」

平和な世界には戻れないけれど。
言葉に出さずとも分かってくれた上司は、わたしの手首を握っていた手を離して、ゆっくりと背中にまわした。
引き寄せられて、抱きしめられる。
壊れ物を扱うかのような、痛いくらいに優しいその力に、ふいに泣きそうになった。

「ここはそういった『世界』です。生きるためには戦わなくてはならないんです」

「……わかってる。だから、わたしは骸さんについてきたの」

側で戦えるように。守れるように。
わたしなんかの力じゃ、殆ど何も出来ていないかもしれないけれど。
毎日のように繰り返してきた盤上遊戯は、すべてそのために。

、ですが僕は」

「後悔、してないわ。この手だって。さっき骸さん、綺麗だって言ってくれたじゃない」

うれしかったのよ。そう続ければ、身体に回された腕に力がこもった。


どんなに汚れていても、あなたさえ綺麗と褒めてくれるのなら、それでいい。
自己満足だろうと、エゴだろうと、構わない。
その為ならわたしはキーだって叩くし、爪も整えて、あなたを待つ。
結局この閉塞された世界で、わたしの帰りたい場所はひとつだけ。



「わたしは、骸さんがいて、ボスがいて、みんながいればそれでいいの」



大好きな人の胸の中、わたしの言葉に泣き笑いみたいな声でありがとう、大好きな声が小さく聞こえた。



儚い透明

(だからおねがい、優しく笑っていてね)
20080403