それは桜が舞う、とてもとてもきれいな花霞の日。 並盛のそれを思い出させる風景は、けれど決して幼い頃から見慣れたそれではない。 幼なじみと手をつないで歩いた砂利道の感覚も、石畳の堅さに印象を変えてしまっていた。 ああそういえば、日本を離れて、すでに四年を数える。 高校を普通に卒業したあと、製菓の専門学校で勉強した。 それからこの国、イタリアに留学。今はとある小さな菓子店の、パティシエとして働いている。一応。 件の幼なじみはと言えば、高校を卒業するかしないかのあたりで、何人かの仲間と一緒にふらりといなくなった。 語弊があるわけではない。実際、いなくなったのだ。 昔からそんなに存在感は無かったけれど(それでも中学の途中から雰囲気が変わった気はする)、本当に突然だった。 事後報告もいいところで、わたしが知らされた情報はポストに突っ込まれていた消印も何もない真っ白な封筒の中身だけだ。 ――しなければならないことがあります。いままで、ありがとう。 それだけだ。なんなんだ、しなければならないこと? ダメダメなくせに、何を格好付けたこと言ってるんだ。 しかもオールひらがなの殴り書き。筆跡で判断できたのは長年のつき合いだからこそだ。 奈々おばさんに事情を訊いても、よく分からないと曖昧に微笑まれるだけだった。 あんな素敵なお母さんに何も説明しないで出ていくなんて、なんて罰当たりなんだ。そういえばあの家は父親もそんな風だった。 今となっては懐かしいことをつらつらと考えているうちに、今朝はまだ朝食を取っていないことを思い出す。 適当に視線を彷徨わせて目にとまったオープンカフェに入り、ミルクティーを注文してやっと一息ついた。 肘をついて組んだ手に顎を乗せて、ぼんやりと通りを眺める。やたら平和な光景は、既に見慣れたものになりつつあった。 店長にきいた話だと、このあたりは以前まで割と治安が悪かったらしい。 もちろんそのあたりで銃撃戦が始まるとかそんなのじゃなくて、ストリートで暮らす子供達の犯罪が後を絶たなかったそうだ。 それも何年か前から建てられ始めた福祉施設のおかげで随分減り、私はこうして平和ボケしていられるというわけだ。 何でも、この辺りをシマにしているマフィア(マフィア! さすが本場だ)に代替わりがあり、その新しいボスの意向らしい。 マフィアって聞いたら怖いイメージしかなかったけど、存外にいいマフィアもいるみたいだ。 「……あ、時間」 そうこうしている間に時間が過ぎたらしく、そろそろ店に入らないといけない時刻になっていた。 精算を済ませて、再び石畳に戻る。桜は今日が満開の日なのかもしれない。 鮮やかな桃色は、朝靄に滲んでまるでひとつの絵画のようだった。 朝から懐かしい光景を見られて何となく嬉しい気分になりながら、わたしは店の通用口から店内に入った。 更衣室に行く前にキッチンに顔を出して、店長におはようございます、と声を掛ける。 振り返った店長はいつもどおりの朗らかな笑顔で、おはよう、と返してくれた。 店長はすらりと背の高い美人だ。旦那様は別の企業で仕事をしているが、よく店に来ては声を掛けてくれるイタリア紳士。 いつまで経っても仲の良すぎるくらい良い二人は、密かに私の憧れでもある。 「。着替えたらこっちの生クリーム、ホイップしておいてもらえる?」 「はーい」 返事をしてから更衣室に入り、急いでエプロンに着替えて、手を洗う。緩くウェーブした髪がふわりと頬に掛かった。 今日も、甘い香りに包まれた一日がはじまる。 午後になると少し客足が遠のき(昼時は一瞬途絶える)、店長が休憩に入った。 入れ替わりに休憩を取っていた私は業務に戻ることにする。今日はそう忙しくないが、いつ大口の注文が入るか分からない。 モンブランをデコレートしていると、ドアベルがちりんと鳴った。来客があったらすぐに分かるようにという店長の計らいだ。 基本的にこの店の従業員は自分と、それからもう一人少し年嵩の、とても陽気なおばさまとが交代でいる以外にはいない。 店長は外に食事に出てしまっていたから、わたしは慌ててパテを置いて手をぬぐった。 「お待たせしましたー」 キッチンから店に出て、顔を上げる。 うわ、なんか高そうなスーツ。しかもアルマーニじゃない? 詳しくはないが、店長の旦那様が着ていたような。 立っていたのは一人の若い男性で、きっちりと黒スーツを着こなしていた。しかし変わった人だ、と思う。 肩には一匹の、え。カメレオン、よね? どこかで見覚えがあるようなないような。 深く被った帽子を上げもせずに、ガラスケースを興味深そうに覗き込んでいる。まるでこんな店、初めて来たみたいだ。 「お決まりになりましたらどうぞ言ってくださいね」 声をかけると、屈んでいた男は顔を上げてわたしを見上げた。探るようにじっと見つめられて、え。なに? 「……お前、日本人か?」 「え」 イタリア語で話しかけたのに、帰ってきたのは日本語だった。……でもこの人、どう見ても日本人じゃない。 真正面から顔を見てみれば、青年というよりもむしろ年下、少年に近いかもしれない。 整った怜悧な造作は無に徹していて、その隙の無さそうな眼光は、少し怯むには十分だったけれど。 ……なんだその玄人チックなハマり具合は。 深く追求する気もなかったから、思わず素で緩んだ頬をそのままに久しぶりの母国語を口にした。 不思議に思う気持ちよりも、最近めっきり遠ざかっていた日本語に触れられたことの方が嬉しかったから。 「おわかりになります? お客様は日本語、お上手なんですね」 「まあな。昔はそっちに――」 その人がにやりと笑って(笑った!)言葉を綴ろうとしたその時、店のドアベルが鳴った。 ちりん、耳になじんだ音に会話を中断して顔を上げる。 「ったく、どこ行ったかと思ったら……。何でいきなりこのケーキ屋なんだよ。探しただろ」 足音をたてずに入ってきた青年は、薄い茶の髪に真っ白なスーツを少しだけ着崩した日本人。 どこか女性的な、綺麗な顔の造りをしている青年は少年の知り合いらしく、気安い雰囲気で疲れたように嘆息した。 それを嘲るように、少年ははっ、と笑う。 「うるせえ、気分だ。良いだろうが、どうせもう今日は仕事ねえんだから俺は」 「お前はな! 俺は帰ってまた書類仕事だ!」 ……ん? ふと浮かんだ考えを、私は即座に取り消して、それでも尚首を傾げた。青年に、もしかしなくても見覚えがある。 いやいやいや、でもここイタリアだし。 でもこのテンポの良いツッコミとか、何よりその年の割の童顔。 最後に逢ったのは、実に六年前。その頃よりは後ろ髪が伸びていた。 声だって少し低くなって落ち着いていたけれど、それでも、忘れるわけがないのだ。忘れられるはずがないのだ。 「………つなよし…?」 思わず呟いた瞬間に空気が凍って、ひんやりと背筋が冷えた。 それが何て言う気配なのかわからなかったけれど、少年の強い眼光に差されて私は足がすくんだ。 これ、何? あれ、殺気っていうの? 「……リボーン、納めて。怖がってる」 「だが」 「いいんだ」 有無を言わさないような声色を、いつから使えるようになったんだろう。 だけど、こちらに初めて向けられた瞳は、何一つ変わっていない。ああ、やっぱり。 「あの。僕は確かに綱吉ですけど。日本の方ですよね、……失礼ですが、どこかでお逢いしましたか」 「………は?」 瞬間、惚けていた私の頭のどこかにスイッチが入った。このやろうカチンときたぞ。 よくよく見てみればその笑顔はどこか貼り付けたようなそれで、不自然としか言いようがない。いわゆる営業用だ。 「えっと、さわだつなよし、よね?」 「はあ。ですから貴女は…………、………………ん?」 困ったように遠慮がちに私を見下ろした(ああ、背、伸びたんだ)綱吉は、そこで言葉を止めた。 私を正面からきちんと見て、変わらないその大きな瞳が、さらに大きく開かれる。 「え、」 あ、気づいたな、これは。 「ええええええええええええ、ちょ、待てよ、なんなの、は!? ここイタリアだよねリボーン!」 「ああ、間違いなくな」 「は、じゃないわよ。……忘れてたわね? 忘れてたのね?」 「ちが、俺は忘れたことなんて、」 「嘘!」 カウンターから回りこんで、フロアに立つ。 改めて向かい合った綱吉は、六年間でその肩の高さを私の目線まで上げていた。 睨み上げると、完全に混乱しきった瞳がまっすぐこちらに向いた。 「? なんだよね? 本当に?」 「そうよ、あんたの腐れ縁のよ、忘れてたなんて信じられない」 そう声を低めて言えば、そんな訳ないじゃないか、と存外に真面目な声が降ってきた。 「嘘じゃない。忘れてたわけじゃないよ。が前よりももっと綺麗になってて、分からなかったんだ」 「なっ………」 「クッ」 視界の隅で、リボーンと呼ばれた少年(じゃあこれ、あのやたらマセてた赤ん坊?)が、心底可笑しそうに喉をならす。 前なら絶対に口にすることが無かったであろう綱吉のあっさりとした甘い台詞に、私は思わず言葉を無くした。 ていうか今、ぜったい顔赤い。背が低くてよかったかもしれない、こんな顔見せられない。 「?」 「きゃあ! ちょっと、のぞき込まないでよ!」 「いや、だって……あれ? 、なんか顔赤い?」 「気のせい!」 「そう? でも……うん、こんなところだけど、逢えて嬉しいよ」 不思議そうに傾げられた首の角度が、どこか懐かしい。 満面の笑みでうれしさを表現してくれるところも、一緒だ。細められた目がそれを教えてくれた。 久しぶりに呼ばれた名前、そして変わらないその響きに、思わず六年間忘れようとしてきた何かがこみ上げる。 白状します。私は、ずっとずっと昔から、優しく笑う幼なじみの男の子が大好きでした。 |