イタリアに来て、結構充実した日々を送れていた。
就職も出来たし、毎日大好きなお菓子づくりもできる。偶然ではあったけれど、日本の知り合いにも再会した。
そ、それがあの、ほら、ずっとすすすす好きな人、だったりした、けど。落ち着け自分いくつだ。
とにかくそんな感じで4年間過ごしてきた。言葉の壁だって既に乗り越えた。
だけど、別れ、とか、耐えられないくらいに悲しいものとか。
そういうものには、まだ出逢っていなかったのだ。
それは些細なきっかけ、だけど確かな始まりで、終わりだった。



ある日出勤してみると、厨房で店長と旦那さんが無言で向かい合っていた。
流れる空気は緊迫しているとまではいかないが、どこか冷たいものだった。
思わず入り口で立ちすくんでしまったわたしに先に気が付いたのは、旦那さんの方だった。
ああ、そういえばわたしまだ、この人の名前も知らないんだ。
店長が名前を呼んだところを、見たことがない。なんなんだろう、この違和感。

「、あの」
「ああ、か。久しぶりだね、仕事はどうだい?」

ゆっくりと身体ごとこちらに向き直って、紳士的な笑みを浮かべる。
その声と共に部屋の空気は一気に弛緩し、いつもどおりのそれが戻ってきた。
急に現実に引き戻されたかのような感覚に、思わずめまいを覚えたのは錯覚だろうか。
「ありがとうございます。とても良くして頂いてます」
けれどそれを押し殺して笑う。特にわたしの変化には気づかなかったようだ。
そう、それはなによりだと頷くと、旦那さんは店長の頬に軽くキスして、手を上げて店を出ていった。

何気なくそれを見送っていると、後ろからぽんと肩を叩かれた。店長だ。
。ごめんなさいね、ちょっと話し込んじゃった」
「気にしないでください」
「そう? じゃあ、業務を始めましょう」
動き出した時間の流れ。
止まっていたようにも感じられたそれに(どうしてなのかわからないけれど)安堵して、足を踏み出した。
結局わたしは、何も知らなかったということ。
それがわたしが彼を見た、最後になるだなんて思ってなかった。








あの奇妙な朝から一日置いた早朝。

いつも通りに起きて、顔洗って、朝食をとる。窓から見える景色は僅かに霧が漂うものだった。
なんか気持ち悪い。わたしはあまりこういうぼんやりとした町並みは好きじゃない。得体が知れないから。
そんなことを考えつつ軽くメイクしてから支度を済ませるたところで、ふいに家のチャイムが鳴った。え。
なんでこんな時間に。まだ7時にもなってないんですけど。
女性のアパートを訪ねるには非常識な時間に眉を潜めながら玄関に向かって、覗き窓から、


「…………」


来客者を確認した。
「…………」
ええと、どうしようかな。これ、開けるべき? いや、メイクもしたし、幸い人前には出られますが。
考える間もなく、一回だけ、こつりとノックのようなものが聞こえた。
「ちょっと、いるんでしょ。早く開けなよ」
ひいい! ですよね! やっぱりそう来るんですね!
苛立ちの混ざった声色には、副音声で咬み殺されたいの、と入るんだろう。わたしは殴られたことないけど。
そうだよね、非常識な時間に来る人は非常識な人なんだよね! チャイム鳴らしてくれただけいいのかな!
「……?」
「は、はい! 開けます、お待ちください!」
若干低くなった声に我に返って、慌ててドアチェーンを外して、ノブを回した。
開いたドアの向こうでは、漆黒に身を固めた美形の青年(中身は鬼)が私を見下ろしていた。


「お、おはようございます、先輩」
「おはよう。突然だけど、今日は出勤禁止だよ」
「は?」

「聞こえなかった? つまり今日は店に出るな、家にいろって言ったんだけど」

いえ、それは分かるんですけど。
問題はどうして雲雀先輩がそれを告げに来るのかということ。
大体、再会したのは一週間と少し前の話で、イタリアで会うのはこれで二度目になる。
「はあ……ていうかどうしてわたしのアパート知ってるんですか」
「確実な情報網があるからね」
「さいですか……」
先輩には不可能が無いのか。
元々、物理的には大して先輩を怖がってはいなかったけれど(不器用な人だからね)、こればっかりは恐ろしい。

「でも、どうして先輩が? わたし携帯持ってますし、いつもは店長とそれで連絡を……」
「君の店」
わたしの言葉を遮るようにして、雲雀先輩は温度の無い声を発した。わざとだったのかもしれない。
「え?」
「駅の近くにあるケーキ屋の、『cielo』だね?」
「あ、はい……そうですが」
綱吉かリボーン君に聞いたんだろうか。
首をひねると、だからだよ、と訳の分からない返答が帰ってきた。だからなんだというのか。
「あの、意味わかんないんですけど」
困り果てて再度聞くと、雲雀先輩は「入っても?」と一言発した。
そういえばドアは開けっ放しで、しかも立ち話だった。




慌てて先輩を部屋に通して、前にもやっていたように紅茶を用意する。
「うん、おいしい。……すまないね、あまり人に聞かれたくない話だから」
「店に出るな、の理由ですか?」
そう、と呟くように言うと、先輩は静かにカップを置いた。
「君の勤めていた店――いや、この街が、あるマフィアのシマであることは知ってる?」
「ええ、やたら福祉好きなボスさんがいるっていう」
何でそんなことを聞かれたのかわからなかったけど取りあえず答えると、雲雀先輩は一瞬目を見開いて俯いた。


どうしたのかとその姿を凝視すれば、手で口元を覆って、肩が震えて……笑って、る?

え、えええええ。なんだこのレアな展開。


「せんぱ、」
「っ……失礼、うん、そうだね、それだ」
それそれ、と涙目で微笑む先輩の姿は、レアを通り越してむしろ怖い。誰これ。
「まあ、知ってるなら話は早い。そのボスが一番嫌ってるのがね、ドラッグなんだ」
「そうなんですか」
「うん。でね、簡潔に言ってしまうなら、君の店長の旦那だっけ? アレね、そのマフィアの中堅なの」
「へえ…………、は?」
「間抜けな声出さないでくれる? 君ならもう察しついてると思うけど、アレ、ドラッグ流してたんだよね」
アレっていうのは旦那さんのことなのだろうか。あっさりと色々情報が渡されると、処理に困る。
いきなりマフィアだのドラッグだの言われても訳がわからない。
……整理してみよう。
つまり、マフィアな旦那さんが禁止されてる麻薬を売ってたってこと?
あれ? それって。

「………それってやばいんじゃないですか?」

やばいよ、と即答した雲雀先輩は、だからだよ、と最初の言葉に戻った。
「制裁が下る。君はあの場に行ったら危ないから足止めしておけっていう命令でね」
「あの、」
「詳細は喋れない」
いえ、今喋ってたのは結構な内部情報なのではないんでしょうかせんぱい。今日、店で何かがあるってことでしょう?
「そうじゃなくて。命令って、そのボスからですか?」
「そうだけど」
「つまり、雲雀先輩の知り合いか上司? で、綱吉も関係あるんですね」
「ワオ、回転早いじゃないか。さすが学年上位だね。でも半分外れだ」
はずれ。半分は合ってるんだから、半分違う。たぶん、綱吉以下が間違いっていうことだ。
首を傾げる私を楽しそうに眺めながら、先輩は紅茶を口に運ぶ。


「綱吉の上司じゃない、けど雲雀先輩の上司?」


「―――恭弥さん、喋りすぎ」


え、と顔を上げた先には、玄関の壁に凭れて嘆息する幼なじみの姿があった。今日は白じゃない、喪服みたいな黒のスーツ。
いつのまに。
、鍵は掛けておかないとダメだよ」
「あ、うん……どうしたの、綱吉まで」
気配すらない突然のことに、驚くしかない。ドアが開く音も、何一つ聞こえなかった。
「いいじゃない、どうせいつか知ることでしょ」
「え?」
次第です。、今日はその話をしに来たんだ」

はじめに言っておくね。そう前置いて、綱吉は無表情になった。


「君の店の店長とその夫は、もうあそこにはいない。………残念だけれど」


あそこにはいない、の意味は聞き返さなくても分かっていた。綱吉が感情を殺す時なんて、限られているのだ。
殺さなければならない時しか、綱吉はそれをしない。
自分が何かを伝えて、他人が傷つくと考えられることに関しては、頑ななまでにそれを隠す。下手だけど。
つまり、店長夫妻の状況をわたしが知れば、わたしは傷つくのだ。だから、綱吉ははっきりとそれを口に出さない。
バカだ。
わたしは察しがついてしまうんだから、隠しても同じなのに。その優しさは、時に残酷だ。

先程、雲雀先輩は制裁が下ると言った。組織を裏切ればどうなるかなんて組織次第だろうけど。
でも彼が属していたのはマフィアだ。映画とか、テレビでしか知らないマフィア。
あの画面の中のままの組織ならば、裏切りに与える代償は、きっと重いものなのだろう。

わたしは何も知らない。
どうして雲雀先輩は、綱吉は、そんな関係者じみた顔をしているの。



4年。

あの店と、店長と過ごした時間。
店長は朗らかでいつもあたたかくて、旦那さんは優しい紳士だった。
……ああ、そういえばわたしは旦那さんの名前も、仕事も、知らなかった。知らされていなかった。隠されていた。
不思議と感情はそう動かない。
長くも短いつきあいの中で、そういう危うい曖昧さに、わたしも無意識に何かを感じていたのかも知れない。

だけど、頬を一筋伝った雫に見ない振りをしてくれた目の前の二人に何て言えば良いかなんて、わからなかった。




03, Good bye, my dear.
(壊れた日常の向こうにあるものを、想像することなんてできなかった